『学校へ行こう!』名物キッズ・チビあゆが腹筋バキバキに。当時の凄まじい反響と、現在

時刻(time):2023-11-11 11:24源泉(Origin):δ֪ 著者(author):kangli
V6やみのもんたによるかつての大人気番組『学校へ行こう!』(TBS 1997~2005年)の番組内コーナーに出演し、「チビあゆ」として一躍人気者となった宮崎里央菜さん。 宮崎里央菜さん 5歳で浜崎あゆみの曲を歌い踊り、金髪&あゆファッションで全身を固めた姿で注目を集めました。V6のメンバー、森田剛とのユニット『GOタリモミニカレー』時代の思い出や、現在力を入れて

 V6やみのもんたによるかつての大人気番組『学校へ行こう!』(TBS 1997~2005年)の番組内コーナーに出演し、「チビあゆ」として一躍人気者となった宮崎里央菜さん。

宮崎里央菜さん

宮崎里央菜さん

 5歳で浜崎あゆみの曲を歌い踊り、金髪&あゆファッションで全身を固めた姿で注目を集めました。V6のメンバー、森田剛とのユニット『GOタリモ&ミニカレー』を結成しCDデビューしています。

 現在28歳の宮崎さんは、コロナ禍をきっかけに筋トレにハマり、現在はパーソナルトレーナーとして活躍しているといいます。

 今回は、『GOタリモ&ミニカレー』時代の思い出や、現在力を入れている活動について詳しく聞きました。

【インタビュー前編】⇒名物キッズ「チビあゆ」の今 金髪・ギャルファッションで人気に、歌手で挫折も“筋トレ”で変化 #ニュースその後






緊張したとき励ましてくれたV6メンバー


宮崎里央菜さん
――5歳で番組出演することになったとき緊張しませんでしたか?

宮崎:子どもの頃から結構緊張するタイプでした。番組の企画内で他の子どもたちと一緒に出演している時はまだマシだったのですが、音楽番組やライブの舞台は緊張感が漂っていて、顔がひきつってしまいました。

 自分が出演しているテレビの映像は恥ずかしくて見られなかったです。家族が見ているのを扉のスキマからのぞき見していました(笑)。

チビあゆ時代の宮崎さん

チビあゆ時代の宮崎さん

――『GOタリモ&ミニカレー』としてCDデビューした時の思い出はありますか?

宮崎:番組の中で企画化されてから一気に話が進んで……振り返ると本当に流れが早かったなと思います。

 グループの子たちと過ごす時間はすごく楽しかったですね。音楽番組に出る時など、森田さんは「緊張しなくて大丈夫だよ」と励ましてくれました。

『ミュージックステーション』や『うたばん。』に出させてもらったり、当時は分かっていなかったのですが振り返るとすごいことだったなと思います。






「チビあゆがいる!」空港で人だかりに


宮崎里央菜さん
――当時、大変だったことはありますか?

宮崎:シングルの『恋の400Mカレー』は歌詞が早口言葉みたいなので、限られた練習時間で覚えるのに苦労しました。子ども相手なのでスタッフさん達も大変だったと思います。

 私より年下の4歳の子もいたので「もう眠いし帰りたい」と言うこともありました。基本的には楽しんでいたのですが、眠たいのに練習や撮影があるのはつらかったです。

――地元の知り合いから反響はありましたか?

宮崎:地元のご近所さんは「どんどんテレビに出て有名になってすごいね!」と言ってくれていました。知らない人が自宅の周りに集まってくることもありましたね。

 東京に通うために空港に行ったら凄い人だかりができて、警備員さんが親に「お子さんを隠してください!」と言っていたのを覚えています。東京でも渋谷に遊びに行ったら人が大勢集まってしまったことがありました。

 小学校に上がる前だったので周りの子達はあまり番組を見ていなかったのか、保育園の同級生からは特に何も言われなかったと思います。地元では本当に普通の子として過ごしていました。姉の友達の方が反響が大きくて「この間テレビに出てた子だよ」と保育園に見に来る人もいました。

チビあゆ時代の宮崎さん
――番組卒業はどんな活動をしていたのですか?

宮崎:引き続き芸能プロダクションに所属して、東京に通いながらキッズモデルをやったり少しだけドラマに出演させてもらったりしていました。

 カタログモデルの撮影が年に4回くらいで、その他撮影、ファッションショーなどもありましたが、学校の休みを利用して通っていたので、仕事のために学校を休むことは滅多になかったと思います。現場は皆優しい人ばかりだったので、仕事というより東京に遊びに行っている感覚でした。













筋トレ歴1年でボディビル大会に出場


ビフォーアフター
――番組卒業後は、どんなことを目標にしていたのでしょうか。

宮崎:歌手を目指していたので、高校卒業後は大阪スクールオブミュージック専門学校に入学しました。授業の一環としてアイドルグループのようなユニットを組んで、 ライブのセンターを誰がするかオーディションで決めたりしていました。

 有名な学校だったのでいろいろなライブに出演する機会があり、「SUMMER SONIC(サマーソニック)」に出たり、すごく良い経験をさせてもらいました。

 専門学校卒業後は3ヶ月間だけニューヨークにダンス留学しました。向こうでは何もかもスケールが大きくて、「今まで狭い世界にいたんだな」と実感しましたね。

 帰国後は上京して、東京でバックダンサーの仕事をしながら活動していましたが、コロナ禍で芸能活動ができなくなりました。友達の勧めをきっかけに筋トレに目覚めて、パーソナルトレーナーをするまでになりました。今はボディビルの大会に出場したりもしています。






筋トレは“普段では気付かない自分に出会える”


2022年の「FWJ TOKYO SUPER SHOW」での様子

2022年の「FWJ TOKYO SUPER SHOW」での様子

――ボディビル大会に出場しようと思ったきっかけは何だったのですか?

宮崎:トレーニングを始めて1年ほど経った頃、自分では「筋肉量が増えたのか、ご飯の食べ過ぎで太っちゃったのか分からないな」と思っていたんです(笑)。友達に「大会に出てみたら?」と言われて、「出場すれば、どれくらい筋肉量が増えたのか試せるかな」と思って国内の大会「FWJ Beef Sasaki Japan Classic」にチャレンジしました。その後も、何度か国内大会に出場しています。

 最近は日本だけでなく世界的なフィットネスブームで、ボディビル大会がすごく増えているんですよ。

――大会に出るためには、どんな準備をするのですか?

宮崎:脂肪を削ぎ落とさなければいけないので食事制限をするのですが、すごく大変です。今日もお弁当を作って持ってきました。つらくて「もう動きたくない」と思ってしまうのですが、それでも絶対にトレーニングが欠かせないのがキツイですね。

 でも、目標を持って行動するなかで、普段は気付かないような自分に出会えたりするので、それが楽しくて「つらいけど挑戦しよう」と思います。今は12月の大会に向けて体を絞っています。

――これから海外の大会の挑戦も考えていますか?

宮崎:ぜひ出てみたいのですが、海外の大会は出場者の筋肉の量が桁違いなので今の私ではまだ厳しいと感じます。先日、ロサンゼルスの「マッスルビーチ」でトレーニングしたのですが、周りがすごいマッチョな方ばかりでした。今はまず、国内の大会に向けて頑張ろうと思っています。

<取材・文/都田ミツコ 撮影/中川菜美>


都田ミツコ
ライター、編集者。1982年生まれ。編集プロダクション勤務を経てフリーランスに。主に子育て、教育、女性のキャリア、などをテーマに企業や専門家、著名人インタビューを行う。「日経xwoman」「女子SPA!」「東洋経済オンライン」などで執筆。




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