人間らしさを作る前頭前野……思考や理性など、脳の高次機能に関連
人間が人間らしく生きる上で、人間で特に発達した脳部位、すなわち「前頭前野」が重要な役割を果たしています。
前頭葉のうちの一番前の方、ちょうどおでこのあたりにある脳領域が、前頭前野です。脳の高次機能の最高中枢であり、思考、判断、注意・集中力、理性、作業記憶などに関連しています。
そして人間の前頭前野はかなり広い領域で、場所によって異なった役割を果たしていることが分かっています。「本能的な感情を抑えて、理性で我慢する」とか「相手のことを思いやって言わない」といった機能に関わっている、前頭前野の「眼窩(がんか)部」について、わかりやすく解説しましょう。
眼窩とは? ガイコツの目のくぼみの位置にある眼窩部

少し専門的になりますが、前頭前野の「眼窩部」は、「眼窩前頭皮質」「眼窩前頭前野」「前頭眼窩野」などとも呼ばれます。英語でも、orbitofrontal cortex、 orbital prefrontal cortex, orbitofrontal area などと呼ばれ、統一されていません。
ここから先は、筆者の好みで「前頭眼窩野」という呼び名を使わせていただきます。
「眼窩」という言葉は、あまり聞き慣れない言葉かもしれません。いわゆるガイコツの写真やイラストを見たことがあればすぐわかると思いますが、両目がついている場所の頭蓋骨が凹んだ空洞のところが「眼窩」です。上図に示したように、眼窩のすぐ上で、前頭前野の腹側表面(底面)が、前頭眼窩野になります。
脳損傷で人格が変わってしまう例も……事故の症例から分かったこと
前頭前野は、特に人間で発達した脳の領域ですので、人間での研究が不可欠ですが、倫理的な制限があり、他の脳領域に比べて研究が遅れていました。そのような中で、前頭眼窩野の役割を知る突破口となったのは、偶然起きた脳損傷の症例でした。
1848年にアメリカで鉄道建設作業に従事していたフィネアス・ゲージという男性が、火薬の爆発により大きな鉄棒が頭を貫くという痛ましい事故に巻き込まれ、前頭眼窩野に損傷を受けました。
もともと彼は、仕事熱心で責任感も強く、部下にも尊敬されるような人物でしたが、事故後は、周囲の人々が「もはやゲージではない」と評するほど、人格が変わってしまいました。具体的には、衝動を抑えられず、無礼で罰当たりな行為に走ったり、我慢ができず自己中心的に振舞うようになってしまったのです。
また、アメリカの神経科学者のアントニオ・ダマシオが2005年に出した著書(Descartes' Error: Emotion, Reason, and the Human Brain)の中で紹介した、エリオットという患者のケース(ダマシオが出会い観察を開始したの1980年代から)も同様でした。
エリオットは、有能なビジネスマンでしたが、脳腫瘍を切除するための外科手術を受け、前頭前野の一部を切除されました。その結果、知能は保たれましたが、人格が大きく変わってしまいました。
切除されたのが前頭葉のどこかなのかは、実は明確にされていないのですが、術後に大きな感情の低下が認められたことから、感情を司る大脳辺縁系の扁桃体とのつながりが強い前頭眼窩野がダメージを受けていたものと思われます。
その他にもいくつかの症例が報告されています。これらのケースから、前頭眼窩野の損傷によって、以下のような変化が生じたことがわかります。
・衝動を抑えられない、反社会的行動をとってしまうなど、抑制力の低下
・性欲過多
・危険を恐れず、ギャンブルを好む
・お酒、タバコ、薬物を過剰に摂取する(やめられない)
・お金を節約したり、計画的に使うなどの経済感覚がない
・思いやりの欠如、自己中心的など、対人関係の障害
・人の話に共感できない
前頭眼窩野は、「抑制力」「理性」「社会性」に関わっており、その人の「人格」を決めている脳部位と言えるでしょう。
「意思決定」にも関わる前頭眼窩野
前頭眼窩野にはもう一つ重要な機能があることが、近年明らかにされています。それは「意思決定」に関わるということです。
上で紹介したフィネアス・ゲージは、損傷後に「優柔不断になった」とも報告されています。また、ダマシオの患者エリオットは、もともと活発な男性だったのに、術後から積極性がなくなり、感情が表出されなくなってしまいました。
「無表情な人」というと、常に冷静沈着で、突発的なことが起きても動じず、落ち着いて判断してテキパキと物事を進められる人というイメージがありますが、エリオットはそうではありませんでした。むしろ、あらゆることに対して決断ができず、行動を起こせなくなってしまったのです。
私たちが目標を達成するために、複数の案から最善のものを選択しようとするときには、その選択肢それぞれの「価値を見積もり比較する」ことが必要ですが、その過程に前頭眼窩野が関わっているということを、2019年に筑波大学の研究グループがアカゲサルを用いた実験から発見しました。
大脳辺縁系と強くつながっている前頭眼窩野
前頭眼窩野には、前頭前野の他の領域と異なる特徴が2つあります。
1つめの特徴は、解剖学的に他の脳領域とのつながりが強いということです。前頭眼窩野は、すべての感覚野とつながっているうえ、他の前頭葉領域や、情動の中枢である扁桃体や記憶の中枢である海馬を含む大脳辺縁系とも強くつながっています。
上述したように、前頭眼窩野は、大脳辺縁系を中心に生じる欲求や衝動を抑える役割を果たしています。大脳辺縁系を制御するためには、神経連絡が必要なので、強いつながりがあるのは当然と言えば当然です。
一方、前頭眼窩野が「意思決定」を行うには、大脳辺縁系で生じる「感情」が必要です。たとえば、私たちは「おいしいそうだから食べよう」「危険で怖いから逃げよう」というように決断しますね。
フィネアス・ゲージやエリオットが、物事の決断ができなくなってしまったのは、大脳辺縁系とのつながりを絶たれてしまったことで、感情の情報に基づいて考えることができなくなったためではないでしょうか。
理性と感情は対立するものと思われがちですが、実際には密接に関係していて「相互に必要」な存在なのです。
個人差が大きい前頭眼窩野……性格や個性が多様なことと関連か
2つめの特徴は、脳溝のつくりにかなり個人差があるということです。私たちの手の指紋が人によって千差万別であるように、前頭眼窩野のシワは人それぞれなのです。形態が違うからと言って、働きが違うとは限りませんが、おそらく前頭眼窩野は個人差が大きいと考えてよいでしょう。
個人の性格の違い、いわゆる個性は、前頭眼窩野の違いで生じているのかもしれません。
薬学博士・大学薬学部教授。東京大学薬学部卒業後、同大学院薬学系研究科修士課程修了。東京大学薬学部助手、米国ソーク研究所博士研究員等を経て、現在は武蔵野大学薬学部教授として教鞭をとる。専門である脳科学・医薬分野に関し、新聞・雑誌への寄稿、生涯学習講座や市民大学での講演などを通じ、幅広く情報発信を行っている。
執筆者:阿部 和穂(脳科学者・医薬研究者)